今年の頭にようやく完成した「WATER」について。

昨年の9月より「WATER」という作品を何度か上映しています。
映像美と音楽の融合、昨今の情勢を盛り込んだテーマを好意的に受け止めてくれる一方で
「難解すぎる」「泣けない」「病んでいるのか」
そんな声を聞く機会のある作品でもあります。

近年では「つるかめのように」「こぼれる」とは真逆の位置にあります。
こう作ろうという意図から大きく外れて、"できてしまった"という自分のフィルムグラフィーの中でも異色中の異色の一作となっています。

わかりやすくて、泣けて、できたら笑えたりもして、
ほんわかするハッピーな気持ちのよい作品。
確かに好きです。これまではそれを目指して作ってきた自分がいます。

ただ、どうしてもそれができませんでした。
どんな気持ちで作ったのかを少しだけ書かせてもらいます。


時間が経つと忘れてしまうことがたくさんあります。
恐怖に慣れてしまって、鈍感になったりもします。

忘れてくれるなと言わんばかりに
映画「WATER」は震災直後の空気感をまとっています。

2011年の春から約1年。
2人の俳優と夜な夜な集まり、物語の断片を集める作業を重ねました。

当時、震災直後は東京も夜は照明が少なかったりして先行きの見えない雰囲気が目に見えてありました。
同じようにエンターテイメント業界自体も自粛自粛で軒並み公演や企画が流れている状態。
そんな中、震災の前から企画していた作品を実現するために我々は集まっていたのですが、
どうもやはり震災や原発事故の影響が作用していました。

フィクションを扱うにしてもそれを避ける流れがある中、
我々は迷うことなくこの空気感を焼き付けることを選びました。

特に原発事故については準備を進めながら
実際に撮影や編集が進むにつれて、そして現在も情勢が変化しています。
ないないと言っていたものが、実はあって。
安全の基準だって、簡単に引き下げ、
隠していたこともついには溢れてきてしまっている始末。

3人で誓ったことはひとつ。
表現者として目の前のことから逃げずに何か形にしておこうと。
とはいえ震災のこと、原発事故のことだけを限定的に捉えずに。
自分たちはどういう立場から表現すべきか、
考えていくうちに「水」というキーワードに出会いました。

水は、言葉よりもこの地球上で共通する物体。
そして、命の起源でもあります。
皮肉なことに最近では汚染水という言葉でも連呼されるほどです。

簡単にその基準を変えてしまうあいまいな境界線の、
その線引きに翻弄される人々を、
もっと言うとこの国の未来を想って生意気ながらも作りました。

問題の根っこを解決することなく、
目の前のことを薄めてしまえば済むのか。
誰かの喜びも悲しみも形を変えて、
行き場のない水が今日も行ったり来たりしています。

境界線の向こうとこちら側があるとして、
それでもどうしようもなく係わりあって生きていかないといけません。

怖がらず、この作品をこれからまた届けていきます。
わからないと目を背けず、まずはこの映画と係わってもらえたら嬉しいです。
必ず何か受け取ってもらえるものと信じています。

上映の機会については随時お知らせしてまいります。

決まっていないことの方が多いんですが、考えたことを書きました。
広島のこと、長崎のことをまた考えるこの時期に。
薄れかかっている震災や福島のことを考えるために。
忘れてしまって、同じかそれよりもひどい悲劇を繰り返さないために。